昭和五十七年五月二十三日 朝の御理解


御理解第三十六節

「日本国中のあらゆる神を皆信心すると云ふが、それは余りの信心ぢゃ。人に物を頼むでも一人に任すと其人が力を入れて世話をして呉れるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず。大工を雇うても棟梁が無ければならぬ、草木でも心と云うたら一つぢゃ、神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる」


 私が福岡で修行中の時分でしたが、福岡から月次祭たんびに帰ってくる訳です。
 ところが、三井教会の総代でありました方からお金を借りておった。そのお金の支払いが出来なくなって、この次の月次祭には、この次の月次祭には、と云うておりました。
 それで、もういくら何でもこれ以上の嘘は云えない。
 まあ、月次祭ですから電車で参ります、それから宮の陣で乗り替えて甘木線に乗って来ますが、どう思うても大城で降りられない、そんな時間に来ておりますから、降りなければ月次祭には間にあわない。神様にお願いをさして頂いて、色々お知らせを頂いておりました。
 そしたら、今日は三井教会に行くかわりに本郷教会へ参れ。と神様から頂いたんです。ああ、よかったと思うてね。
 ところが私は本郷教会と云う所を知らなかったんです。近くでしたけれど、行った事がなかったんです。
 本郷で降りて、今思うてみると右側の方へずっと行ったと思います。
 田んぼ道を行っておりましたら、右に行け、左に行けと云われる。そのとおりに参りましたら、大きな池の前に出て行けなくなったんです。
 神様が三井教会で降りずに、そのかわりに本郷教会へ参れ、とおっしゃった。
 ところがそこで行きづまったから、又、そこでお願いさして頂いた時に神様から頂きました御理解が、
  死んだ気で励め努めよ。と頂いたね。
  徳もつく、人も助かる、道も開ける。と云うお知らせを頂いたんです。
 私共が、只難儀だから、苦しいからと云うて神様にお願いをするとね、始めからそうはおっしゃってないですね。
 今日は三井教会には行きにくいだろう、向こうには総代が、お前が金を持ってくるだろう、と待っている。
 持って行きよらん、断りの云いようがない、そんなら今日は三井教会へ行かずに本郷教会に参れと。
 例えば、お願いをするとね、ギリギリの行かれん所へ、ちゃんと行ってしまうんです。
 只、そういう時に直面したら、いよいよ本気でね、ママよ、と云う心を出さなきゃいけない事が分かりますね。
 神様、あなたが本郷教会へ参れとおっしゃったぢゃないですか、だから私は本郷教会にどうでも行く、と云うようなこっちゃなくてね。
 道を、さあ右だ、左だ、と云うて道路を歩いて行くと、行きあたりが堀で、もう前には進まれない。
 これは本郷の教会とは違うぢゃないですか、と云う訳なんですけれどもね。
 こういう時が、ママよ、と云う心を出すんだよ、とね。死んだ気ですがれ、励め、努めよ、とね。
 そこに徳が受けられる。
 まず、徳が受けられる、と云う事が先ですね。
 それから、人も助かり、自他ともに助かり、自分も助かり、人も助かりゃ道も開ける。とこう教えて下さった。
 今朝方、私はお夢を頂いておった。此処へ秋山誠二君が夫婦でお願いに来て、お装束を作りたいと思います。と云うんです。
 お装束作ってもいいけどね、自分が作ったっちゃいかんよ、神様からね、与えられる、作って頂くぢゃなからなきゃ。自分で作っちゃいけない。と云うて今の話を皆さんに聞いて頂いた話をしておる所であったね。
 今日の御理解で一番大事な所は、一番最後と思うですね。
 この一心を出すと直ぐにおかげが受けられる、と云う所だと思うですね。
 私は神様一心です、とこう云うてもですね。その一心、と云うのはどこかと云うとね、それこそ死んでもママよ、と云う一心だと思うです。
 それこそ死んだ気で励め努めよ、と云う一心だと思うです。そこに徳が受けられる、とこうおつしゃる、又の御理解にもあるようにね。
 十二分の徳を受けようと思えばママよ、と云う心になれよ、ママよとは、死んでもママよ、の事ぞ。
 そういう所は、中々通れないものですけれども、まあ、それまでお願いをしてもおかげにならん、ならん時にはもういよいよこれは、神様が徳を下さろうとしておる時だ、と思わにゃいけん、と思うですね。
 ですから、此処で一心を出さなきゃ、その一心が直ぐにおかげが受けられる、お徳を受ける事だ、と。
 私が今日おかげを頂いておると云う事は、そういう一心がですね。 昨日もお話ししましたように、一にも神様、二にも神様、三にも神様と云う事はね。もういよいよ神様を芯にした生き方、神様本意の生き方ね。
 まあだ、神様が右に行け、左に行け、と云われておる時にはね、まあだ自分が一心、自分中心なんです。
 自分を中心だから、右にしたがよいでしょうか、左にしたがよいでしょうか、と云う事になってくる。
 だから神様は右に行け、左に行け、と。行きよるけれども、そこには一切もう前には進まれない、と云う所に出た時、初めてママよと云う心を出せば直ぐにおかげが受けられる、と云うような一心。 私はそういう一心だと思う。
 一生懸命、と云う事は一生命を懸ける、と書いてあります。命を懸ける、ママよと云う事は、そこに徳が受けられる。
 今日、私は誠二君が此処でお装束を作りたい、と云う事に対して、お夢の中では、一時間位な感じでしたが。
 一時間位、夫婦の者に一生懸命、御理解を説いておる、その御理解は、ちょっと忘れてしまいましたけれども、覚えておるのは、今の事でした。
 徳を受ける事が先だよ、と。
 秋山誠二、と云う名前、家内が美枝、と云う。美しい枝と。真が二つと云う秋山誠二ではおかげ頂かれないね。
 秋山と云えば寂しい、と云う感じね。そこで誠を一つにするとね。そこには、神様を中心にした生き方、神様本意の生き方がある。
 だから今日、合楽で私が頂いておるおかげは私を中心にしたおかげなんです。
 私が頂いておるおかげは、願わんでも頼まんでも神様が私を中心に色々働いて下さるんですね。
 そこまでのおかげを、私共は皆さんにも頂いてもらいたい、とこう思うですね。
 お願いをする。右をよいか、左がよいか、と云う程度の時は、そこに私は腹を決めなければいけない時だ、とね。
 それは一心、直ぐにおかげを受けられる、と云う一心を出す。
 それはね、命を懸ける、一生懸命。誠が一つ。二つも三つもある訳はない、誠は一つなんだね。
 そういう信心に、家内の美枝と云うのは、まあ美しい枝がそこから出るんだと。自分で作ろうと云う気になるな、神様が与えて下さるんだ、とね。
 それには兎に角、死んだ気で努め励まないけません。
 一心に神様中心の生き方を求めていかなきゃなりません。
 そこから徳が受けられる。人も助かる。道も開ける。
 今日はその一心を出すと直ぐにおかげが受けられる、と云う事を聞いて頂いたんですけどね。
 いやあ、私は合楽一本です、合楽一心です、と云うだけぢゃないね、もう本当に死んだ気でそこに一心になる、と云う事ね。
 死んだ気で励み努める、と云う事ね。
 そういうような事があって、瞬く間に人が助かるようになりましたね、借金も払えるようになりましたね。
 中々見えませんけども、まあだ何とか借金が払えるように何とか断りの方法がないものだろうか、そういう事は誰にも頼もう、かれにも頼もう、と云ったような所を通りましたけれども、神様が、さ右だ、左だ、と云って下さる通りに行って、そこに行き詰まった時に初めて神様が本心を云うて下さった。
 それは、こういう時だ、それこそ命までも取ろうとは云わない、死んだ気で、今から直ぐ三井教会の方へ行け。
 参りましたら、お月次祭は済んでました。けれども総代さんはちゃあんと待っちゃったです。で私は神様へ御祈念するまでは、絶対、物云わない事に決めとりますから御祈念をさしてもらう、後の方に大きな火鉢がありますが、火鉢の前で座って待っちゃっる。私はいつまでも、いつまでも御祈念をする、もう向こうぢゃ待っとるばの、と云わんばかりに火鉢の淵をキセルでカチカチカチカチと云わせよんなさいますもん、ばってん私は御祈念をする。
 キセルの音がせん事なったから御祈念をやめた時には、しびれを切らして帰っちゃりました。
 そういう所も所らせて頂きましたけれどもね。
 そういう時分な、本当に大坪さんな見そこのうた、ほんなこて横着な奴ぢゃある、と云うふうに云われも思われもしました事でございましょうけれども、そういう事は、一言、二言ぢゃございませんでしたがね。
 そういう時に初めて死んだ気で励み努める、と云う手立てを覚えたように思います。
 そこから、いよいよ神様中心の生き方、自分を中心にした生き方ではなくて、自分の都合の為の神様ではなくて、神様の御都合で動かしてもらう私、と云う事になりました。
 そこから真におかげが受けられる、と云うおかげも、道も開ける、人も助かる、と云う程の道が開けて来たんです。
 一心を出す、と云う時には、本当にママよ、と云う心。
 ママよ、とは死んでもママよ、の事ぞ。そこに十二分の徳が受けられる。
 私は今日、誠二君にした話を後から思い出すだろう、と思いますけれども、こういう時に自分を中心ぢゃいかんぞ、神様本意で行かにゃでけん、神様本意で行ったから、今日私が頂いとるおかげは神様が大坪総一郎本意で動いておられるから今日の合楽の発展につながった、と云う意味の事を話しておったんですけれどもね。
 神様が右とおっしゃったから、左とおっしゃったから、それでおかげ頂く時には、それでよし、けれども神様の仰せ通りに仕って、出けん時には、そこでいよいよ腹を決めなきゃならん時だ、と云う事ですよね。
                        「どうぞ」